人獣共通感染症の解説 シリーズ第1回:狂犬病

新  連  載 !

社団法人-横浜市獣医師会の人獣共通感染症の解説シリーズがはじまります。



 公衆衛生とは、「組織された地域社会の努力によって、疾病を予防し、生命を延長して、身体的・精神的な健康を効率よく増進する科学ならびに技術である」と世界保健機関(WHO)で定義されています。概念としては、臨床医学が個人水準で健康を扱うのに対し、公衆衛生は社会水準で健康を取り扱い、感染症予防、公害対策、生活習慣病対策、上水道・下水道・食品衛生など社会保障の基礎となる分野について研究、活動をするものと言えます。

 社団法人横浜市獣医師会の事業目的のひとつは、人及びすべての哺乳動物に感染し発症すると重篤な症状を伴って、ほぼ100%死亡する狂犬病とその他人獣共通感染症を予防することであります。現在日本では、1950年に狂犬病予防法が制定され、1957年以降は国際的にも清浄国で狂犬病の発生は報告されておりません。しかし、日本の周辺国を含む世界のほとんどの地域では依然として狂犬病の発生がみられ、年間の死亡者数は厚生労働省によれば推計55,000人にのぼります。したがって、日本は常に狂犬病の侵入の脅威に晒されており、その侵入に備えた予防対策を講ずることが最重要課題です。

 万一狂犬病が発生した場合には、とにかく素早く発生拡大と蔓延予防策を図ることがたいへん重要ですが、そのためには犬の飼い主さんのみならず市民の皆さん全体に狂犬病に関する正しい知識の普及を行うことと、狂犬病予防注射の実施および登録をきちんと行うことが必要です。また、他の人獣共通感染症につきましても正しい知識の普及啓発を図ることは、市民の安全安心の確保に貢献し、公衆衛生の向上と福祉の増進に寄与するものであると考えます。

 以上のことから、社団法人横浜市獣医師会が狂犬病等の人獣共通感染症の予防およびその知識の普及啓発を行うことは、WHOの定義と我が国の狂犬病予防法や公衆衛生の目的を果たすためには、なくてはならない活動なのです。

 社団法人横浜市獣医師会ホームページでは、犬を飼う人々のみならず一般市民の健康管理・維持の観点から人獣共通感染症を取り上げ、シリーズとしてその存在と特徴、脅威と対策についてわかりやすくお知らせしていくことになりました。

 第1回として「狂犬病」を取り上げます。
はじめに

 数年前、宮崎県の畜産農家で口蹄疫という伝染病が発生した際には、国民の生活を脅かす重大な問題として報道でも大きく取り上げられました。それに際しては、口蹄疫の感染や発病が認められた地域の獣医師のみならず、国内で活動している多くの獣医師が協力のために手をさしのべ、口蹄疫発生地域において伝染病の拡散を鎮静するための対策や、そこから他の地域へ伝染病が蔓延することを防止するための対策を考慮し、総力を挙げて活動を行うことで終息宣言にまで漕ぎ着けることができましたが、近隣住民の健康に関する不安を増大させたり地域経済に大きな損失が生じたりしたことは記憶に新しく、改めて身近の伝染病の恐ろしさを再認識した事件でありました。

 口蹄疫が人にうつる病気ではないにもかかわらずあれほどの事態が生じたということは、万一そこに生じた伝染病が人にも動物にも共通して感染し死亡率も極めて高いものであった場合、それはさらに深刻な脅威となってしまうでしょう。

 今回取り上げる「狂犬病」という病気は、その極めて深刻な人獣共通感染症のひとつです。


病    名: 狂犬病(きょうけんびょう:Rabies)
分    類: 人獣共通感染症(Zoonosis)
病 原 体: 狂犬病ウイルス
  ラブドウイルス科:Family Rhabdoviridae
  リッサウイルス属:Genus lyssavirus
感染経路: 主に咬傷による
潜伏期間: 1〜3ヶ月(もっと長いという報告もあります)
症    状: 噛まれた場所の痛み
発熱、恐水・恐風(神経)症状
興奮・錯乱・けいれん・麻痺
死 亡 率: 発症した場合はほぼ100%
予 防 法: ワクチン接種

狂犬病の概要:
 狂犬病は犬の病気と思われがちですが、実際は犬だけに限らずほ乳類(子どもを産んで母乳で育てる動物)の全てが感染・発症の可能性があります。したがって、犬以外の猫や牛・馬など私たちに身近な動物もその対象に含まれますし、キツネやタヌキ、シカやネズミのように野生の状態で生活している動物も狂犬病の脅威にさらされていることになります。そして、忘れてはいけないのは空を飛ぶコウモリもその対象となっていることです。

 実際、人の狂犬病は犬からの感染が最も多く報告されていますが、猫や牛、野生動物(キツネやコウモリ)からの感染も確認されており、まれではありますが臓器移植によって人から人への感染が成立したという例も報告されています。

 狂犬病の原因は狂犬病ウイルスという病原体によるもので、多くの場合は狂犬病にかかっている動物に噛まれることによって人や動物に伝播します。

 感染は、唾液の中に含まれているウイルスが体内に侵入することによって成立します。多くは咬み傷からの侵入ですが、病気にかかっている動物に舐められることで目や口の粘膜から唾液を介して感染が起こる可能性も否定できません。

 狂犬病は、体内に侵入したウイルスが神経系を介して中枢神経系まで達することで発症します。「風が吹くと怖がってパニックになる」とか「音がすると興奮してけいれんを起こす」、「よだれを垂らしてうろついていて傍によると噛みつかれる」、「あごがカクカクして食べ物を飲み込むことができない」といった症状が古くから言い伝えられているとおりで、その症状から「恐水病または恐水症:Hydrophobia」という呼び方をされる場合もあります。

 狂犬病にかかっている動物に噛まれたり濃厚な接触があった場合には、まず洗浄と消毒でウイルスを排除することおよびワクチン接種を行う(暴露後接種といいます)ことにより発症前に免疫力を上げる処置が試みられていますが、不幸にして発症にまで至った場合は主に神経系の症状を訴えながら次第に重篤な状況に陥りほぼ100%が死に至ってしまいます。しかも、幸運にも治療が成功したといわれる数例の報告でも神経系に後遺症が残るなど有効な治療法が未だ確立されていないというのが現状です。

 このように狂犬病はこれまでに知られている数多くの感染症の中でも特筆するに値する病気、法律でも「感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)」第6条(定義)において日本脳炎・炭疽・マラリア・Q熱・発疹チフス・鳥インフルエンザなどと共に四類感染症に分類されています。それに伴い日本国内で狂犬病の発生を確認した医師や獣医師は直ちに保健所(都道府県知事宛)に届け出を行うことが規定されており、発症した全ての患者さんや患畜を行政が速やかに把握・管理し蔓延を防止する措置を執ることが定められている重要で深刻な伝染病です。
日本の状況:
 最近でこそ「犬に咬まれた」というと「躾が悪いから」ということが取りざたされるのですが、我が国のとくに高齢者の方々がまだ若い頃、犬に咬まれた=狂犬病!という通念がまかり通っていた時代もあり、その頃の怖い記憶が現在に至っても残っていて、犬が唸ったり吠えたりしただけでも「狂犬病ではないのか?」という不安を感じてしまう方が未だに多くおられます。このように、狂犬病という病気は戦前の日本においてはまるで当たり前の病気であり、人々は生活する中で常に狂犬病の存在を意識せざるを得ない状況におかれていたわけです。

 しかし、1922年(大正11年)「家畜伝染病予防法」が制定され、飼い犬に狂犬病予防ワクチンを接種することが義務化され、それが実施されると直ぐに我が国における狂犬病の発生数は減少し始め、戦中の社会状況による予防体制の減弱化によって一時期発生数が増加をしたことを除けば、概ね減少の一途を辿ってきました。それに加えて1950年(昭和25年)「狂犬病予防法」の制定によりさらに発生数は減少を続け、法律施行後7年間で発症数がゼロになるという成果を上げることができました。

 以来、狂犬病撲滅の戦いは医師や獣医師をはじめとする関係者が強い意志を持って防疫を継続することにり、世界でも希に見る清浄国という状態が続いたまま現在を迎えています。日本国内での狂犬病の発生は、人では昭和31年(1956年)以来55年間(2011年現在)、動物では昭和32年(1957年)以来54年間発生が見られていないのです。
世界の状況:
 一方、世界に目を向けると現実は厳しいものがあります。狂犬病は依然として世界中の国々に発生し続けていて今でも沢山の人や動物が被害に遭っています。前述のように画期的な治療法がないにもかかわらず感染を起こす可能性のある動物がほ乳類全般にわたることと陸続きの国境によって被害の拡大をなかなか押さえ込めないというのが現状です。

 狂犬病の発生数に関しては、WHOの統計で5万5千人/年という報告がありますが、実際には全ての国から正確な情報が得られているわけではなく、実数はそれを遥かに超えるものと想像できます。多くはアジア、アフリカに集中しているとされますが、アメリカ・カナダ・ドイツ・フランス・イタリアなど先進国といわれる国々でも狂犬病の発生は例外ではありません。

 国内に狂犬病が発生していない幸運な国(清浄国)は、世界中でたった12の国と地域(アイスランド・アイルランド・イギリス・オーストラリア・キプロス・グアム・台湾・ニュージーランド・ハワイ・フィジー・ノルウェー)に限定しています。これらの国や地域はほとんどが島国であり陸続きの国境を有していてもそこから動物が自由に出入りすることが制限できる地域(スカンジナビア半島)に限られています。このことからも狂犬病という病気を封じ込めることが如何に困難であるかということがわかります。

 ちなみに、検索サイトGoogleを使って「狂犬病」を検索すると、何と687万件もの関連サイトが抽出されます。これだけを見ても世界中がいかにこの病気に関心を持っているのかがわかります。
狂犬病ゼロへの挑戦:
 では、清浄国としての日本の状況はどうでしょうか。

 日本では、過去の国内での狂犬病の発生の状況を鑑みて、検疫体制の強化や野生動物の輸入制限などの法整備を進めるとともに、現場で対応する職員が強い危機意識を持つことよって水際で狂犬病の侵入を食い止める努力が続けられていますが、実際には全国各地の港に寄港する狂犬病発生地からの外国船舶の停泊時に同伴された動物の存在や、積み荷に紛れ込んだネズミやコウモリなどの小動物の存在も危惧されています。

 また、国内で狂犬病の発生が制御されている一方で心配ことも浮上しています。

 日本人が仕事や観光で世界中を旅行することが当たり前になるにつれ、旅行者が外国で犬に咬まれるなどして狂犬病に感染しその後国内で発症するという事例が昭和45年(1970年)と平成18年(2006年)に報告されました。とくに耳新しい2006年の事例は京都と横浜で発症が確認され、旅行中に犬に咬まれたことによって発症したものであるとされました。
横浜市獣医師会の今後の活動:
 国内には、いろいろな論拠を元に「狂犬病予防注射はもう必要ないのではないか・・・」と評する動きもありますが、今回の東北地方太平洋沖地震で得られた教訓のように、安心や安全に責任を持つ側が「もうそんなに大きな災害は起こらないだろう」という概念を持って危機管理意識が衰退していた中で突如として100年に1度の大災害が生じ多くの地域に甚大な被害をもたらしました。しかし、独自に100年に1度の大災害に備えていたからこそ今回の危機を乗り切った被災地も存在します。やはり、何事も論理的に進めるばかりが合理的であるとは限らないことが証明された部分もあるように思います。

 私たち社団法人横浜市獣医師会は、過去の事例に立ち返りながら「もうあのような恐ろしい状況を2度と国内に蔓延させない」という強い意識を持ち、「もう大丈夫だろう」という油断や慢心が原因になって(ある日)国民を不安や危険におとしめることがないように、確固たる覚悟をもって狂犬病予防の取り組みを行って行きます。
関連ウェブサイト:
WHO
厚生労働省「狂犬病について」
国立感染症研究所「狂犬病」のページ
日本獣医学会
感染症法
狂犬病予防法
家畜伝染病予防法

おことわり: